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くんちゃんの・・・

くんちゃんの・・・

患者というもの

患者というもの


 こんな経験が私自身の看護・介護のあり方を再考させられる良い機会になり得たことは、私自身の貴重な体験だと思う。医療・介護の提供者側にいた私にとって、それは‘考えているつもり’で実は考えていなかったのだということを思い知らされた。‘相手の身になって’とか‘共感の姿勢’と言うことがいかに大切か…私はわかっているつもりでも、実はな~~んにも解ってやしなかったのだ。患者を体験したことは私にとっての最大の武器となり得るはずである。

 患者と言うものは、いつも不安なのだ。たとえばちょっといつもと違うことや、たとえ些細な出来事でもそれがこれまで経験したことのない変化であればそれは当然不安材料になりうるのである。「もしかして再発??」「ひょっとして転移??」そんな不安を消し去ることは困難で、それが常に頭をよぎってしまう。もちろん、「違う」と否定したいし「大丈夫だ」と思いたい。
 ただ患者はこれまで幾度となく自分の予想を裏切られてきたわけである。「自分が癌?そんな筈はない。何かの間違いに違いない。」「明日目が覚めればきっとこれは夢だったと言う笑い話になってる筈…。」そんな楽観的予測や希望的観測はことごとく否定され覆されてしまった。それだけに、‘今回は違う’と言う自信も保証も何処にもないのだ。
 医療の提供者側にいた私にとって、「そんなことは99パーセントあり得ない」と言うことは分かり切っていても、患者は「その1パーセントに自分を当てはめてしまう」そんなものなのだ。いつもどうしようもなく不安なのだ。誰かにこの不安な思いを聞いて欲しい、それを受け止めて欲しいのだ。

 ‘わかって欲しい気持ちに並び立つこと’それが共感である。では、その‘わかって欲しい気持ち’とはなんなのか?患者というものはやはり弱者である。「こんなこと言うと相手を不快にさせるのでは…」「自分の弱さが露呈してしまうのでは…」そんな遠慮や不安から本心からの自分の思いを伝えられる人は、まずいないだろう。言いたいことの半分も言えないでそれをいつも飲み込んで、自分の中で消化不良を起こしてしまっている、それが患者なのだ。

 その不安な思いを吐き出せる場所がこの国の医療には、もっと必要なのではないだろうか…。カウンセラーやケースワーカー、ソーシャルワーカーや臨床心理士の存在は知名度においては残念ながら‘まだまだ’であるし、その絶対数も少ないというのが現状だと思う。
 患者自身には必要なはずのそういう対象があまりに少なすぎるから、私のように(つたない文章でも)HPを開く人も居るわけで、同じ思いを抱え生きている人は決して私だけではないはずだ。現に『乳ガン』と検索しただけでも、経験者のHPは沢山あるのが現状だ。私自身この経験者の方々のHPを心のよりどころにできているし、それによって救われた部分はかなり大きいと思っている。

 わかって欲しいというのはおごりかもしれない…。‘経験してみないとわからない’のは当然のことで、何もわかって欲しいと望んでいるわけでもない、この思いをどこかに吐き出してしまいたいのだ。
 そして、今もどこかにいる私と同じ思いに悩みながら生きている仲間を応援したい、共に歩んでいきたい…不遜にも病を経験し躓きながら何とかここまで歩んできた今の私はそんな風に思っている…。


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